2016-04-20 第190回国会 参議院 決算委員会 第7号
福井は熊本と特別の関係がございまして、幕末に熊本藩主細川家から福井藩主松平春嶽公の正室がお腰入りされたこと、また、熊本藩士で維新の十傑にも数えられます横井小楠が招聘されて藩政改革を福井藩の方でなされた際に、後に五箇条の御誓文を起草することになります由利公正などを指導した、こんな御縁がございまして、福井市は熊本市と姉妹都市でございます。
福井は熊本と特別の関係がございまして、幕末に熊本藩主細川家から福井藩主松平春嶽公の正室がお腰入りされたこと、また、熊本藩士で維新の十傑にも数えられます横井小楠が招聘されて藩政改革を福井藩の方でなされた際に、後に五箇条の御誓文を起草することになります由利公正などを指導した、こんな御縁がございまして、福井市は熊本市と姉妹都市でございます。
館内に細川家が集めた美術工芸品がたくさんあって、昭和竜宮殿と呼ばれている。 これはちょっとわからないことがあるんですよ。これは先代の細川力蔵さんが亡くなったときに遺族の方が相続税が払えなかったんですよ。それで、これは物納したんです。今では大蔵省の所有になっている、六千坪。知っていましたか。要するに、借地なんですよ、目黒雅叙園というのは。国から借りているんです。
この方の文章によれば、細川家が佐川に貸している南禅寺の隣接地は約四千五百平米、千四百坪。私はこの前の質問のとき千坪とお伺いしたのですが、私から聞いたら、そんなものですという総理のお答えでしたが、京都の一等地ですから、坪当たり一千万としても百四十億の資産です。
もうもらった方がびっくりするくらい出すんであって、その佐川さんが、細川さんのところとは、さらに湯河原まで含めますと三つの物件を借りるようになったのは、僕は、細川家に対する憧憬とか好意的なものがやはりあったんじゃないだろうかな、こう思うのです。
佐川氏との交友関係の始まりは、佐川氏が父の所有しております細川家代々の京都別邸を知って気に入りまして賃借をするようになったことでございまして、これは佐川氏の隣人でありました元参議院議員の河本嘉久蔵さんという方が、もう亡くなられましたが、私に父との賃貸借契約仲介を依頼をされてきたことが発端でございます。
幾ら細川家のお殿様といえども、こうして国会議員がみんな国民にかわってこの問題を聞いているときに余りにも安閑としたやり方じゃないか。非常に私は総理に対して不信を覚えざるを得ないんです。 契約書があるならば、契約書のコピーを持ってきてここでお答えいただくのが当然じゃありませんか。一カ月半もこのために国会で数回にわたって審議を行っているんですよ、この問題について。
○国務大臣(細川護煕君) 細川家の不動産管理事業を行っておりましたキコーエンタープライズ、後でホソカワ・アンド・アソシエイツというふうに社名変更しておりますが、昭和六十三年の四月に不動産会社から約五千六百万円で軽井沢の土地を購入いたしまして、また平成元年五月にその土地に建物を建築するのに際しての資金として、この義父のNTT株百一株を担保提供してもらって、計九千六百万円を借り入れましてキコーエンタープライズ
それで、総理はいま一つ借り入れの理由として、熊本の細川家の御自宅の土塀、山門の修理時期について、これは私の質問を通じまして、実際の工事期間との間に借り入れたと言われる五十七年九月と比べ土塀で一年近く、山門で二年近くのずれがあることを提出資料を通じてお認めになりました。 一億円として、当時八%と言われていた金利、年間八百万円の利子負担であります。
まして、文化財の修復に多額の寄附をされてきた佐川清さんが、細川家の文化財である土塀や山門の修復についてそういう金利まで取ったんでしょうかという気持ちがいたします。 さて、国民は今回の政治改革に当たり政治腐敗の防止を強く望んでいます。国民のこの期待に沿うためにも、総理はみずからこの佐川急便からの一億円の疑惑を晴らすために積極的な努力をされることを強く要請し、お願いする次第です。
一々例証はいたしませんけれども、総理は借り入れの理由につきまして、東京のマンションの購入費及び熊本の細川家の文化財指定になっています土塀や山門の修理のためにお金を必要としたと述べられてこられたと思いますが、この点間違いないでしょうか。
まあ、細川総理もそうだと思いますけれども、しかし、本当に細川家というのはすばらしい人材がおってすばらしい殿様であったということは紛れもない事実であります。ですから、きちっと家が残っておるんです。 ところが、しかし最近、総理のことをいろいろみんなが言う。
何か私は、細川さんのおじいさんが近衛に当たるわけですが、そういう近衛さん、それから細川家に通じるものと天皇家とはあの戦争を前後して非常に意見のそごとか何かがあったのかなというのを調べたら、やはり当時の天皇は平和を追求していたそうでありますけれども、結局細川さんのおじいさんであります近衛さんが、まさに大政翼賛会、ファシズムの方向に流れを変え、そのときにも今の総理と同じように国民の圧倒的な支持を得ていたそうであります
さらに、きょうは伺っておきますが、新聞報道もなされた、細川家の赤倉別荘を佐川に貸したのは八六年一月とあなたは記者会見で発表されました。 私はここに実は佐川の「飛脚」という雑誌を持ってまいりましたが、これを見ると、赤倉山荘オープンというのは実はそれよりも五年早くて、八一年から使っていると書いてあるわけですよ。
という話し出しからあるわけでございますが、時間の関係で途中を省かしていただいて、「しかし細川家の子孫ということで、お金目当ての選挙屋が続々と集まってきました。ほとんどの人がお金の要求でした。運動だけはその人たちに頼んでおり、最初は順調でしたが、お金がないと知ると去っていき、最初の選挙は落選でした。」こういうようなお金に関してのお話があるわけでございます。
その後細川家が小倉藩から来まして熊本城を預かって、そしてずっと流れて細川護煕さんと、こういうことになるわけでございます。 時々文化しか残らぬとおっしゃっておるものだから、文化の前に県民の命を守る、今度は国民の命を守るということからが一つの大きな政治哲学じゃなかろうか。私らなんかは閣議に出られませんので、上原長官も細川総理と大いにお話し合いをしていただきたい。